備忘録・覚え書き的なもの

備忘録・覚え書き
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考えをまとめるために

 ものごとを考える際、頭の中で一生懸命に考えていてもなかなか考えがまとまらない。そして、考えていたことをつなげてみると一見整合性がとれているようにみえても、ちょっと突っ込んでみると矛盾だらけ、ということがよくある。

 文章にして書き出して、読み直して、自分の考えに照らし合わせてみて、書き直して…。本を読んだり、調べたり、人と話したり、ニュースなどに触れたりして、少し考えが変わったり、誤りに気付いたり。試行錯誤して考えがまとまって。でも別のトピックスいついて考えをまとめてみても、前の項目と比べてみると二重人格かと疑うくらいにちぐはぐだったり。

 少しずつ考えや認識を軌道修正をして、そうしてちょっとずつものごとの輪郭が見えてくる。考えをまとめるということも、肉体労働なのだと、つくづく思う。手間暇かけて手を動かして、そして脳が汗をかかないと、まとまっていかない。

 そして、特に私の場合、ノートにちょっとメモをとるような感覚では、考えはまとまらない。人の目にさらす前提で、どのように解釈されるか、また意見の違う人からどのように思われるか、などの観点から読み直して、書き直して、ということを繰り返さないと、まとまっていかない。

 結構面倒くさいが、しょうがない。

考えがまとまるか、どうか

  ものごとを考える前提となるものを、ちょっとずつ書き留めていこうかと思う。できるだけ矛盾のないように、自分の思考が分裂して多重人格的にならないように。そんな備忘録・覚え書き的なものになれば良いなと。

 雑感としてまずは考えを並べ、軌道修正をしながら考えをまとめていきたい。

風見鶏

 鶏は朝を告げる鳥であり、常に辺りを警戒していることから、ヨーロッパでは雄鶏は用心深さや警戒心を象徴していると考えられてきた。また、その鳴き声は悪魔を追い払うということで魔除けの役割があると考えられてた。

 またキリスト教では、ペテロの否認という逸話から鶏は「罪への警告の象徴」とされている。

シモン(ペテロ)が言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

『ルカによる福音書』第22章33節、34節

その後、イエス・キリストは人を惑わす異端者であるとして連行されることに。ペテロは周りの人にキリストと一緒にいたと言われるが「私はこの人を知らない」と否認する。3度目に否認した時に鶏が鳴き、それを聞いてキリストの言葉を思い出して激しく後悔し涙した、という逸話。

 そういったこともあり(?)、9世紀にローマ教皇が教会に風見鶏を設置するよう命じられ、ヨーロッパに広まっていったと言われている。

 日本でも天岩戸伝説で天の岩戸に引き籠ってしまった天照大御神に出てきてもらうために暁を告げる「長鳴鳥」が登場し祝詞を唱えるなど、鶏は神の使いとされ象徴的な存在となっている。

風見鶏のイメージ

 そんな鶏をかたどった風見鶏、元々は「風に向かって雄々しく立つ」という良い意味で使われている。しかし、日本では中曽根康弘が風向き次第で態度が変わる風見鶏と揶揄されたため日和見主義的なイメージになった。

 物事に対するイメージは時代とともに、周りの状況の変化とともに変わっていくもの。時には風に立ち向かって雄々しく、時には状況に応じて柔軟に(風向きによって揺れ動き?)というのがちょうどいいかな。そんな風見鶏のように生きていきたいなと思う。

最近思うこと

 50代を過ぎ、いろいろ考えるようになってきた。希望もありながらも、虚しさなんかも感じることが多くなった。何となくこのまま生きていくのかなと思いながらも、このままでは何も変わらないな、あとで後悔が残らないかな、という思いも持つようになってきた。でも今までこうやって生きてきたのは、何か自然に(?、誰かが何かやってくれて?)変わっていくだろうという思いが頭の片隅にあったのかも。

 何か動き始めないと何も変わらない。何か変えたいというよりも、自分が変わろう、という思いかな。

 まずは少しずつ自分の考えをまとめてみようと思う。これが正しいと言うつもりはない。自分が良いと思っていること、考えのもとになっていることをまとめたもの。書いてみると、いろいろ矛盾があることに気が付く。それをちょっとずつ修正していくとどうなるのだろう。